2020年度日本地理学会賞受賞者 - 日本地理学会
2020年度日本地理学会賞受賞者
優秀論文部門
小泉佑介 会員「インドネシア・リアウ州における移住者のアブラヤシ個人農園経営を通じた社会階層の上昇移動」地理学評論、第92巻第6号
本研究は,インドネシアのスマトラ中部リアウ州におけるアブラヤシ栽培の拡大と,移住者の動向に関連したフロンティア社会の生業変化による社会階層の上昇について,丹念なフィールドワークと現地聞取り調査によって,そのプロセスを明らかにした論文である.特に開拓空間への自発的な移住に着目して,個人農園経営への参入と経営規模拡大のプロセスを社会階層の流動可能性という視点から論じている点に大きな意義がある.リアウ州への移住者の主な生業を個人農園経営,企業農園労働,個人農園労働の三つに分け,各世帯主の生業変遷の詳細な考察を通じて,土地を持たない労働者が個人農園経営に参入した後,その経営規模を拡大させながら大規模経営者へと社会階層が上昇するメカニズムを模式図とともに明確に提示している.既存研究とは異なるフロンティア社会特有の階層移動の可能性を明らかにし,これまで等閑視されてきた自発的移住者に着目して考察を展開した独創性と新奇性は高く評価できる.また,地図や統計分析を上手く活用し,丁寧な論旨の展開のもと段階的に空間的スケールを絞り込み,対象地域へ焦点を定める手法は見事であり,有意義な地理学研究として認められる.
若手奨励部門
中川紗智 会員「娼婦の移動実態からみた盛り場の性格──1950年代の横浜を事例として──」地理学評論,第92巻第5号
本研究は,1950年代の横浜を事例に,娼婦の通時的な移動経歴の分析を通じて,盛り場の性格を考察したものである.娼婦の属性や行動等に関するこれまでの研究がある一時点の分析にとどまってきたことに対して,本研究では「婦人保護台帳」という希少性の高い一次資料を丹念に分析することで,横浜の盛り場に流入した娼婦の経歴とその背景を浮き彫りにした労作である.特に,盛り場の構成員の代表格である娼婦について,従来のよくないイメージとは異なる多様な存在を浮き彫りにし,彼女らの移動には個々の目的があったことが明らかにされた.615人におよぶ詳細な一次データに基づいて娼婦の経歴を出生地と空間的な移動にまで踏み込んで明らかにした点は,社会学の研究とは一線を画する地理学独自の成果をあげたと評価できる.娼婦の通時的な経歴を定量的・定性的に調査し,その移動実態を明らかにするとともに,横浜という盛り場の特性を論じた意欲的な研究である.
論文発信部門
浅田晴久 会員「インパールの過去・現在・未来──南アジアと東南アジアのはざまで──」E-journal GEO 第14巻第2号
本研究は,インド・マニプール州のインパールおよびその周辺における地域変容を,著者自身のフィールド・トリップから得られた情報に基づいて解説したものである.日本人にも名の知られるインパール作戦となった地域について,自然地理学および人文地理学の双方の多角的な視点から,多くの写真を用い,一般の読者にもわかりやすく当該地域の特徴を紹介している.インパールでは長年外国人の入域が制限されてきたこともあり,その地理的環境や歴史的背景の詳細は十分に知られてこなかった.インドとミャンマーの「境界地域」としてインパールを位置づけ,さまざまな権力関係に影響を受けつつ変容してきた同地域の具体的姿を描出した点は高く評価できる.
鈴木晃志郎 会員・于 燕楠 会員「怪異の類型と分布の時代変化に関する定量的分析の試み」E-journal GEO 第15巻第1号
本研究は,これまで民俗学的な手法で扱われてきた,幽霊や妖怪を含む怪異を対象として,定量的な分析を試みた革新的な研究である.富山県における大正時代と現代の怪異の出現に関するGISを用いた空間分析を行い,現代の怪異は大正時代と比べて種類が画一化され,可視性が失われており,生活圏から離れた山間部に退いていることが明らかにされた.著者らによれば怪異に関する学術研究は長く白眼視されており,分野を横断する展望論文が存在しない中で,新しい研究手法を検討して学際的なイノベーションを起こそうとした意欲を評価したい.なお,本研究は多方面のメディアでも取り上げられ,一般社会にもわかりやすく情報発信し,地理学会の認知度上昇に貢献したことも付記しておきたい.
優秀著作部門
熊谷圭知 会員『パプアニューギニアの「場所」の物語:動態地誌とフィールドワーク』(九州大学出版会,2019年)
本書は,著者の40年にわたるパプアニューギニアでの地域研究の成果をまとめたものである.著者は首都の移住者集落から辺境の村まで,多様な場所で参与観察に基づきフィールドワークを続けてきた.さまざまな地域の植民地化の歴史に根差す社会と人々の葛藤・実践を,歴史資料・統計資料・ライフヒストリーなどの資料を用いて克明に描いている.それらは関係性としての「場所」という独自の概念を用いて説明されている.本書ではあわせて,現地調査での経験と思考を経て得られた著者の地誌学およびフィールドワークのあり方が提示されている.地誌学を周縁化させた日本の地理学界への疑問や,調査者と被調査者との利益の不釣り合いの問題を通して,地理学とは何か,どうあるべきかについて考えさせる重厚で希有な学術書となっている.短期間の研究成果が評価されがちな昨今の研究環境のなか,厳しい自然・社会環境にも関わらず継続して地域を調べ続け,関わり,まとめられており,地理学の存在意義や今後の発展の方向性を議論する上でも重要な学術書といえ,高く評価できる.
著作発信部門
荒木一視会員ほか執筆者一同『救援物資輸送の地理学:被災地へのルートを確保せよ』(ナカニシヤ出版,2017年)
本書は,災害の被災地にいかに迅速に救援物資を届けることができるかという問題意識のもと編まれた編著であり,自然地理学的研究とGISを中心とする人文地理学的研究との協働による成果である.執筆者それぞれの専門領域は異なるが,共通の課題に向き合うことで各章の内容は有機的に関連しあい,首尾一貫性をもつ書物として結実している.この点は,領域の異なる研究者が協働して書籍を編み上げる上でのモデルを提示したものとして,高く評価できる.また,本書が一般読者向けに編まれていることも重要である.本書では,さまざまな主題図を効果的に活用することで,事象を多面的かつ視覚的に理解できるよう促す工夫が随所に施されている.さらに,読者に語りかけるような筆致や,装丁・デザインなども含め,読者に対し伝えようとする熱意にあふれている.これらのことを通じて,自然地理学やGISの専門的知見を理解するための入門書として稀有な成功を収めているといえる.
地理教育部門
荒井正剛 会員教育実践やその成果発信ならびに地理オリンピックを通じた国際的な活躍等による地理教育の普及・発展
荒井正剛会員は,長らく東京学芸大学附属中学校教諭・副校長,同大学教授を勤めるとともに,地理教育実践研究者の立場から,日本地理学会地理教育専門委員会委員,日本地理教育学会副会長,日本社会科教育学会ダーバーシティ委員会委員長,国際地理オリンピック日本委員会実行委員会委員,日本教育大学協会社会科部門代表等の要職を歴任した.さらに2019年に上梓された『地理授業づくり入門―中学校社会科での実践を基に―』(古今書院:単著)は,地理教育の根本である新学習指導要領や,教育の国際的動向を念頭に置きつつ,荒井会員が実際に実践した授業を事例に,楽しく有意義な授業のための手法を紹介した地理教育の基本図書であり,重要な教科書である.以上のように,荒井会員は教育実践の立場から,我が国の地理教育に長年にわたり大きく貢献してきた.
学術貢献部門
森田 喬 会員文理融合科学としての地図学の発展に対する多大な貢献
森田 喬会員は,第29回国際地図学会議組織委員長,国際地図学協会副会長,日本地図学会会長,日本学術会議連携会員等を歴任し,長年国内外において地図学を中心とした分野に貢献してきた.特に2019年7月に東京で開催された第29回国際地図学会議 (ICC 2019) に際しては招致活動段階から尽力し,39年振りに我が国で開催された同会議の成功に大きく貢献した.森田会員は長年地図学を,地図作成の技術や理論から,地図の社会的役割や活用までを含む,文理融合科学の一部として捉える重要性を説いてきた.近年は,GISと地図学の融合の重要性や,地図学におけるSDGs(持続可能な開発目標),Future Earth等地球規模課題への貢献の可能性についても啓発に尽力している.さらに,「神の眼 鳥の眼 蟻の眼」(毎日新聞社),「図の記号学(訳書)」(地図情報センター)等の一般書,専門書も多く上梓している.
社会貢献部門
滋賀県(三日月大造県知事)ハザードマップに基づいた安全なまちづくりの先駆的な取り組みの展開に対する多大な貢献
近年,流域全体の土地利用計画により水害を防ごうとする地理学的な考えに基づく「流域治水」の概念が全国的に注目を集めている.滋賀県はこの概念をいち早く提唱して条例化し,また,住民が主体的に防災を考えられるよう「地先の安全度マップ」を整備した.
これは,画一的な想定浸水深だけではなく,さまざまな想定に基づく浸水深を示し,流体力や浸水確率も表示するなど,住民のハザードに関する理解と,防災力の向上を目指している.さらに,住民との合意形成を重視しながら,警戒地域指定や建物制限にも踏む込む先進的な取組みを行っている.
このような水害リスク情報は,「滋賀県防災情報マップ」(web-GIS)で全県を網羅し,併せて,土砂災害や地震などに関するリスク情報も一元的に閲覧することができる.
こうした取組みは,ハザードマップに基づいて安全なまちづくりをするという地理学的な防災の実践であり,ハザードマップの目的に,避難を促すことだけでなく安全なまちに作り変えることを付加した点は先進的である.
防災の実現にはさまざまな課題がある中で,持続可能な社会づくりをいかに実現させるかを考えることが求められ,それこそが今後の地理教育に課せられる重要なテーマである.滋賀県の一連の政策はグッドプラクティスのひとつとして,地理教育の教材にもなり得る.